これからの現実を妄想する

この記事は以前書いたブログの記事を手直ししたものになります。

Meet-Meの思い描いた未来と実際の未来 - ななしのきろく

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ゲームをしているとき、夢を語ったとき、遊んでいるとき、はたまた下らない妄想をしたときに「現実を見なさい。」といわれた事が有る人はきっと多いと思う。この「現実」とは何だろうと考えた事はないだろうか?

 

キャンペーンなどでアイテムが当たるときに、バーチャルではない本物のアイテムや、本物の体験という表現されることもある。バーチャルと現実もしくは本物。これは何が異なるのだろう。物質的な存在を持つことだろうか?

 

この記事を読む人が、パソコンを使って読んでいるのか、スマホタブレットを使っているのか、印刷されたものを読んでいるのかそれは分からない。しかし、どれを使って読んでいたとしても、この記事を読んでいる事は現実の出来事だと認識しているだろう。

 

それはこの記事が今の人々が生きる世界に存在しているからだと僕は思う。なぜ当たり前のことを書いたのかと思うかもしれない。しかし現実というのは、現在流行中のVRである必要も3Dである必要すらなく、ただ文字でも十分だということだ。

 

グラフィック技術の進歩は没入間を高める歴史といって良く、VR技術はその一つの到達点と言える。その場に居るという説得力を持たすために2Dより3D、静止画より動画、そして極めて高い没入間を持つVRは、大きな説得力を持つがこれは現実となる決め手ではない。

 

例え没入間が高まっていたとしても、現実を見なさいといわれてしまうゲームや夢や妄想。これと世間一般で言う所の「現実」は何が違うのかというと、多数の人物と同時に同じ体験を共有することができるかどうかではないかと思っている。

 

かつてのゲームは自分ひとりが主人公となり冒険して自分だけの世界を楽しむものだった。実現性の無い夢も妄想も自分だけの世界で他の人は同時に体験することができない。遊びの場合も多くの大人が共有して見ている世界とは異なる世界の出来事なので大人には現実を見なさいと怒られてしまう。

 

また目に見える存在、例えばデジタルデータではなく現実に存在する物品に価値があるとする価値観やそれを本物のアイテムと表現する事も、デジタルデータがデータでしかないという部分よりは現状として実際に存在しているものでなければ、その物体が存在しているという体験を共有できないためではないかと思う。

 

多くの人が同時に同じ体験を共有できる。これが僕が考える現実の必要条件だ。

 

では、近年流行中のいわゆるVRや、かつて流行したメタバースはやがて現実になりえるのか?この答えは僕の考えでは「現実には決してならない。」になる。まず、どちらも限られた人しか遊ぶことができない。この時点で多くの人が共有できる体験ではない。

 

結局は生きて実際に過ごしている時間の長い世界がいわゆる「現実」なので、メタバースで遊んだりVRで遊んだという体験は現実に共有できている。しかし、メタバースやVR世界に存在しているのは現実にの人間にレイヤーを被せた存在だ。例えそれが現実の姿をしていたとしてもだ。

 

メタバースVRでは現実の人間にアバターというレイヤーをかぶせ情報を追加もしくは制限した姿の存在と遊んだという体験はできる。これは現実の属性は関係なく遊べる仮想世界の極めて大きなメリットといっていいだろう。

 

しかし、仮想世界としての完成度が高まり、自らの情報をコントロールできればできるほど、それは現実世界から乖離した別な世界として完成してゆく。ただし、現実の影響を受けないというのは仮想世界の持つ大きなメリットだ。

 

かつて思い描かれた未来では、肉体が存在する世界の「現実」と、意識のみを自由に動かすことができるもう一つの「現実」二つの現実が平行して存在する世界だった。しかし実際に足を踏み入れた現実はどうだろうか?

 

ネットの世界と呼ばれ、匿名でさまざまなことを行う空間だったインターネットはSNSなどの普及で実名やほぼ固定されたハンドルネームで遊ぶ空間となり、情報端末や通信技術の進歩で現実とネット相互の世界は境界があやふやになった気がする。

 

例えば、以前はネットの世界での騒ぎが現実に影響する事はまれだった。今ではネットでの騒ぎは現実へ容易に影響してしまう。また現実の騒ぎがネットへと影響することも珍しくはない。

 

これからの現実は純粋な現実も、純粋な仮想現実も無くなり、現実と仮想の境界線があやふやになり現実と仮想が交じり合った世界になるのではないかと思う。

 

かつてのショルダーフォンと呼ばれエリートだけが持てた携帯電話がスマホと呼ばれる高機能化した存在となり一般庶民でも持てるようになったように、HMDと呼ばれる表示装置も小型化高機能化し廉価になる未来が来るかもしれないが、その時に訪れる現実は現在のVRの延長線にあるものではないだろう。

 

空間投影を利用した、仮想のアイドルのコンサートが開かれることがある。仮想のアイドルは存在そのものが仮想で、その姿もイメージとして与えられた存在に過ぎないが、その姿を複数の人で同時に自分の目で見て耳で聞き、その体験を共有できる。

 

今世間一般で現実といわれている世界に居ながら、本来は現実には存在しないものを複数の人間で同時に見ることが出来る現実とも仮想とも言い切れない体験。これが未来の現実となるのではないかと考えている。

 

現実がさらに変化してゆけば、リアルタイム性すらも、ある程度制御可能になるのではと思うことがある。これは今まで書いたことを根本的に否定するかもしれないが、一つの具体的な例がある。ニコニコ動画のコメントシステムだ。

 

ニコニコ動画のコメントシステムは、動画のあるタイミングで誰かが書き込んだコメントを同じタイミングで再生することで擬似的なリアルタイム性を持ちながら、時間的にはいつでも数分前に動画を見た人とも数年前に動画を見た人とも同じ場面を見た体験を擬似的にとはいえ共有できる。

 

どんな未来が来るのかは分からない。しかし、仮想と現実の境界があやふやになり融合するどころか、時間の概念すらあやふやになる未来。というのはきっと面白いと思う。